ミケランジェロの絵画に後代、描かれた人物の股間に布を描き加えてしまうなど、男性の裸体像には難しい問題がまとわりつきます。「増補 股間若衆」(以下、本書)は、西洋美術が輸入された日本の男性像にまつわる歴史を紐解いたものです。
男は、股間が曖昧になる
本書は日本における彫刻の男性像を中心に、その表現方法の推移と取り巻く環境を記述したものです。タイトルの「股間若衆」とは著者が命名した男性像の呼称。その名の通り本書の注目点は股間の表現にあり、「男性像における曖昧模っ糊りの研究」との副題は日本独特の表現方法を表したものであります。
大元となった古代ギリシア彫刻のように男性の股間を表現することは、ルネサンス以降の西洋において憚られ、アダムとイブのようにイチジクの葉などでその部分を覆う方法が採られてきました。それを直輸入した日本でも同様の表現が試みられてきましたが、その不自然さを解消するため、あえて曖昧な造形を取り入れた作品が出てきたのです。
とにかく(股間を)造らない北村と、朝倉100%
その表現を行った代表的な作家は、「長崎平和祈念像」の作者・北村西望。その作品の一つ「アダム」ではイチジクの葉とも思えない放射状のディテールが股間を覆い、本書に収録された他の北村作品においても形は違えど「何かがある」程度の曖昧な造形が股間を構成します。
かたや実直な股間の造形に取り組んだのが朝倉文夫でありました。それゆえ「股間表現に官憲より修正を求められた」(本書013ページ)など、その信念を貫くには非常に難しい環境が立ち塞がっていたのです。黒田清輝の例に漏れず、戦前の裸体表現は肉体美の再現と世俗的な猥褻とのジレンマに苛まれ続けてきました。
葉っぱ一枚(の造形)、あればいい
戦後まもなく日本では先の「長崎平和祈念像」に代表される復興と平和の象徴として、裸婦像と股間若衆たちが街なかを飾るようになります。そこには北村の作品だけではなく朝倉の作品も仲良く(?)青空のもと、その肉体のすべてを衆目にさらしていました。
本書後半には著者が詣でた各地の現存する股間若衆たちを紹介、そこでは「曖昧模っ糊りの曖昧ぶりと(中略)葉っぱも落ちない」(本書206〜7ページ)と語られる、葉っぱからふんどし、謎のオブジェに至るまで(戦後においても衆目に配慮したのか)様々な方法で股間を守った造形が見られます。
おもろうて やがて悲しき 股間若衆
ダジャレのタイトルに代表されるように、本書の基調はユーモアに溢れるものであります。裸と性を笑いに昇華した日本文化に習えばそのアプローチは間違いではないのでしょう。その感覚からすれば裸体に美を求める姿勢もまた滑稽なのかもしれませんが、本書の末尾を飾る「彫刻家たちは男の裸にも本当に真面目に取り組んできたのだよ」(本書264ページ)との言葉には、一笑に付すことを許さない先人へのリスペクトが感じられます。
本書の原書が刊行されてからの13年間に起こった出来事を増補した中に、股間若衆たちがエヴァンゲリオンやガンダム、ドラえもんなどの人造人間(?)像に置き換わる様子が記録されています。ジェンダーフリーという言葉が社会に浮上する現在、肉体美や性など、その価値観が揺らぐ中にあって、かつての股間若衆の背中に浮かぶのは悲哀なのか、それとも希望なのでしょうか。
「増補 股間若衆」木下直之 著 ちくま文庫 1100円(税込)