裸婦の中の裸婦

 RPGがブームになっていた80年代、ファンタジーに関する書籍を読み漁っていたさなか、なんの因果かたどり着いたのが澁澤龍彦の著作でありました。「裸婦の中の裸婦」(以下、本書)は澁澤龍彦最後のエッセイであり、それが裸婦に関するものだったのはいかにも著者らしいチョイスです。

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隠されたものを発掘する知の巨人

 本書は、澁澤龍彦が書いた最後のエッセイを国文学者の巖谷國士が書き継いだものです。澁澤龍彦といえばマルキ・ド・サド作品を翻訳して裁判ざたになった人ですが、その著作は美術からオカルト、エロティシズムまで多岐にわたり、SMという言葉が生まれる以前にその概念を日本に伝えた人物ともいえるでしょう。

 本書で言えば(日本人洋画家の先駆け)百武兼行、ポール・デルヴォー、バルチュスなど当時はマイナーだった作家をいち早く紹介し、一般的な美の基準にとらわれない審美眼で美術を語った側面がうかがえます。そして本書は架空の人物による対談形式で一つひとつの作品を解説していきます。

生産性とは無縁の裸婦たち

 本書に見られる裸婦たちは一定のパターンがあるようで、

  • 「裸体をして、(中略)一個の陶器のごときオブジェと化せしめる」(本書23ページ)
  • 「ぼくはこのクラナッハ風の痩せた『裸婦』が好きでね」(同74ページ)
  • 「ルーベンスのように健康な野生美にあふれてはいない」(同84ページ)

 生々しさよりも均一な質感、肉感的よりも造形的に優れる裸婦、いうなれば生産性とは無縁のエロティシズムを抽出したような裸婦が著者の好みなのかもしれません。

 さらに言えば両性具有のヘルマフロディトスの彫刻や四谷シモンの制作した人形に「性の分化する以前のいとけなさ」(同143ページ)を感じ取り、性別不問の美を見出す部分も見られるようです。

澁澤龍彦を書き継ぐということ

 先に述べたように本書後半は巖谷國士による代筆というべき物となっており、各版ごとのあとがきは同様に巖谷によって書かれています。総じて見ると晩年の澁澤の様子とその仕事を引き継ぐ巖谷の葛藤がしたためられ、そのプレッシャーとあくまで代行に徹する姿が感じられます。

 「澁澤龍彦の晩年の、円熟したエッセー集となるはずであったものの四分の三を、ひろく読者に供するための出版にほかならない」(本書171ページ)とはいえ、後半の著述も指摘されなければ気づかないほどの踏襲ぶりであり、その目標にかなったものになっているのではないでしょうか。

肩肘張らずに、美術を語らふじゃあないか

 本書に限らず、あくまでも自らの興味の赴くまま書かれたのが澁澤作品の特徴であり、魅力でもあります。そこには、人間の想像力またはそれゆえの危うい部分までも含めた人間全般に対するある種の諦念と興味がないまぜになった澁澤の眼差しが見られるようです。

 解説にある通り、澁澤の著作の中でも親しみやすい本書。美術のうんちくを傾ける中にも嫌味な部分を感じさせない語り口は、40年近く経っても色褪せる事はありません。美術の入門書として、また澁澤作品の入門書としてもふさわしいと思われます。(Re)

「裸婦の中の裸婦」澁澤龍彦 巖谷國士 著 河出文庫 858円(税込)

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