時代劇ほどではないにせよ、大河ドラマやアニメ「おじゃる丸」などで日本史上メジャーな平安時代。当時のやんごとない人々は何を身にまとっていたのか。「十二単と雅な和装の描き方」(以下、本書)は平安貴族の装束を描くための資料集です。

雅な和装とは、いかがなものでおじゃるか
本書は平安時代の貴族の衣装を解説したものです。平安時代をテーマにしたイラストを描くための資料として服の構造からその意味合いや文化までをイラストをふんだんに使って図示しており、単なる作画資料というよりは平安貴族を知るための入門書としての意味合いも持ちます。
「当然ながら初期と末期では、同じ平安時代というくくりでありながら、まったく違う文化となっています」(本書3ページ)との通り、本書では最も平安時代のイメージに符合する中期の装束について記述されており、「源氏物語」「枕草子」が生まれた時代の和装がわかります。
じつは麻呂眉はなかった?
さて男性貴族の社会は明確な身分の差があり、仕事着に当たる束帯(そくたい)の色で分けられた、とされます。服の染め方はまだ手作業だったため、美しく染められた束帯は財力と家柄を示すものとして、それを着こなすことで身分が一目瞭然となったのです。
また、貴族のステロタイプ表現として白塗りに麻呂眉の出で立ちがありますが、実際の平安中期男性貴族は白粉を塗っていたものの「まろ眉はウソ!」(本書89ページ)なのだそうです。さらに女性と同じく髪を伸ばすのが美徳であり、髪が薄くなると出家するしかなかったとか。
平安女性は動いたら負けだと思ってる
平安時代の女性貴族は「病(当時の言葉で言えばモノノケ)を避けるため、ひきこもって暮らします」(本書32ページ)と男性以上に浮世離れした生活様式になりました。雅さ=動かないことであり、立つことすらはしたないとされ膝を付けて移動していたようです。
男性に比べるまでもなく、女性の装束も身分を表すものであり、いかに立派な衣装を着こなすかが重要でありました。しかし「女主人は豪華、侍女は質素な身なりと誤解されがちだが、実際には逆であった」(同21ページ)とされ、主人に仕える女房のほうが、いわゆる十二単を着ることで主人のステータスを担保する存在だったのです。
今日は日が悪い、道を変えよう
(後代に随分と尾ひれがついたとはいえ)安倍晴明などの陰陽師が活躍したのもこの時代。「平安人にとっては『科学』のようなもの」(本書121ページ)だった陰陽道は「穢れ」とそれを払う「禊ぎ」を基礎として貴族の生活を律しました。それが「物忌み」や「方違え」などの風習を形成したのです。
これらの文化は現代の日本人からすれば奇異にも写りますが、生命の危機が身近にあった当時にあっては、あらゆる手段を使って命(特に女性)を保護しようとする姿勢の表れと見るべきでしょう。少なくとも占いや性格診断のレベルでは平安時代の文化が現代に息づいている、のかもしれません。
「十二単と雅な和装の描き方」砂崎良 監修・著 KADOKAWA 2475円(税込)